誰にも気付かれずに傷ついているあなたへ

みんな最近どう?
訳もなく泣いちゃうとか、突然自分のことが笑えてきちゃうとか、朝起きたらめちゃくちゃ頭が痛かったとか、理不尽に嫌なこと言われたりとか、食べ過ぎて次の日後悔しちゃったりとかしてる?わたしはしてるよ!

わたしが文章を書きたいと思ったのには一応キッカケ、と言われるものがある。
本当に単純なことだけど、自分が誰かの書いた文章に救われたことがあったから、自分も誰にも見つからないで泣いている誰かの支えになりたいとかなりたくないとか。
頭が悪くて幼稚だった頃にそう思ってしまったからとかなんだとか。

この鈴木犬丸として書いているブログで今1人で泣いている誰かの助けになっちゃったりしないかな。なーんて。もしなってたらこっそり教えて。あ、やっぱいいや。来なかったら悲しいから。

誰も傷つけずに生きていくって、難しい。きっとわたしも知らないところで、気づかないところで誰かを傷つけている。今日、わたしは傷ついたことがある。きっと、誰もわたしが傷ついたことに気づかずに。ひとりでこっそり。

せめて、気づかずに傷つけてしまった分でも誰かの傷にそっと寄り添いたいな。絆創膏を貼ってあげることはできないけど、わたしは同じ痛みを想像することはできる。

泣かないでね。いややっぱり泣いてもいいよ。ひとりにならないでね。わたしがいるよ。

僕の身体には幸せになる細胞が入っている

 夜になると、嫌な事を考える。この日は、僕の短い人生の中で、心の底のそこから「幸せだった」と言える時って、どれくらいあっただろうか。という事が勝手に思考されてしまい、深い闇に突き落とされた。

 深い思考をする時に真っ先に頭の中で自己主張をしてくるのは楽しかった思い出や幸せだった時の記憶ではなく、辛くてどうしようもなくて、でも忘れられない嫌な思い出ばかりだ。嫌な思い出や辛かった経験というのは数珠繋ぎになっているようで、1つ思い出してしまった時には時すでに遅し、100思い出すまで「思い出す」ことを止められない。自分のことながら、ゴキブリのようだな、と思う。

 思い返すこと思い返すこと全てが嫌な思い出だと、どうしようも無く冒頭に記述した思考に陥ってしまう。僕って、思い返せばいつもいつも不幸せだったな、と。

 

 僕が今までで1番辛かった、と自信を持って言える時期がある。15歳から18歳の3年間、高校生活の3年間だ。僕は決して長く生きてはおらず、どちらかといえばまだまだこれから、と言われることの方が多い年齢。それでも、きっとこの先あの高校生活よりも辛くて苦しい思いをすることなんて無いような気がする。というか、あってもらっては困るのだ。それほどにも、繰り返したくない人生の一部なのだ。

 

 そんな僕はふと思い返して幸せだった「状態」の時ばかりを探してしまう。

 友だちにたくさん恵まれて、家に帰れば毎日自分の好きな食材ばかりが並んだ食卓で食事をし、両親揃って仲がいい。塾でも学校でも優秀な成績を収める。部活でも全国とはいかなくても、県大会に進めるくらいの実力は持っており、部活仲間ともそこそこな良好な関係を築けていて、大会後には必ずみんなで打ち上げをする。

 地元でそこそこな国公立大学に進学し、男女の壁を越えた友情をたくさんの人と築き、その中で外見的魅力も内面魅力も両方を持った異性と付き合って、教授にも気に入られる。学校内を歩けば多くの色んなコミュニティに作った友達が自分に手を振ってくれる。明確なアイデンティティを持っていて、休日は恋人や友達と遊ぶ日もあれば、自分の好きな趣味に使う日もある。忙しいけど時給は高いアルバイトでまあまあ稼ぎ、月に2、3回はバイト仲間で飲みに行く。毎回参加するわけではないけど、みんなに参加しろ、とせがまれる。 

 就活だって3年生の夏に行ったインターン先で常務に気に入られ、就活という就活なんてしないでまあまあ大手のホワイト企業に内定をもらう。土日祝日休み完全週休二日制で夏季休暇、年末年始休暇ありだ。手取りも新卒にしてはもらえている方だ、と言われるくらいもらえる。入社してすぐに先輩や上司に気に入られ、毎日やりがいのある仕事を与えてもらえる。毎日悩みなんてない。もうすぐ付き合って4年になる恋人との結婚を考える時期。

 僕の想像力の限界で、ここまでしか思い描く事が出来ないけど、これが僕にとって幸せの「状態」だと思っていた。この「状態」でなければ、幸せではない、とまで思ってしまっていた。

 

 僕には幸い、友だちはいないが恋人と呼べる人がいる。割れ鍋に綴じ蓋とはまさに自分の事だと思ってしまったほど、僕の足りない部分や欠けている部分を補ってくれる人が現れたのだ。生まれ持った性根の悪さと、人見知りと、余計な事を言ってしまう癖から決して人に好かれてきた生き方は出来ておらず、どっちかというとどこにいても嫌われてきた僕の凹に凸のようにはまった人だった。

 先日、恋人と食事をしていた時にふとこの人と食事をしている時の僕は幸せだ、と思った。もちろん、食事だけではない。

 僕が運転する車の助手席に恋人が乗っている時、一緒にスタバのティーラテを飲んでいる時、恋人との集合場所に向かう電車の中、恋人のお手洗いを待っている時でさえも、ずっとずっと幸せだったと思った。

 思考が数珠繋ぎに溢れてくる。辛くて苦しくて二度と繰り返したくない高校生活だって、友だちと屋上でお母さんが作った茶色い弁当を食べている時、学祭の準備で買い出しに行った時、塾の前にアイスを食べた時、部活帰りに先輩や後輩とバイキングに行ってお腹が爆ける程食べた帰りとか。テストが終わった日の開放感はこの上なかったし、エモい写真を撮ろうとして加工しすぎて原型がなくなってしまったり、今見返すのダサい写真ばっかりだったり。全部全部、あの時の僕は幸せだと感じていた。

 幸せは「状態」じゃなかった。「感情」だった。線で見ると幸せな状態じゃない時の方が多かったように見える僕の人生だって、点として見たら、その時その時でちゃんと幸せを感じていた。僕が幸せじゃない時なんて、なかった。

 

 年を重ねるごとに、多くを望むようになる。それと同時に、自分の限界もわかってきてしまって、自分の可能性も自分で捨てていくようになってしまう。可能性を捨ててしまうことで、気づかない事も増えた。僕は自分が幸せだったことに気づけていなかった。

 

 僕は、ずっと幸せだ。これからも、ずっと。美味しいものを食べて、大好きな人と一緒にいて、たくさん睡眠が取れる毎日があるだけで幸せなはずなんだ。

今日は特別な日。

 11時前に起きた。会社勤めをするようになって、決まった時間に起きることが体に染み付いてしまって、休日でも朝早く起きることが続いていたため、遅くに起きたことに少し感動すら覚えた。
 
 父親が、お正月用に作っていた栗きんとんを小鉢いっぱいに盛って、食べた。わたしが小さい頃から栗きんとんを好きなこともあり、毎年作る量が増えている。甘いものが食べたら今度はしょっぱいものが食べたくなって、カップ麺を食べた。
 去年から在宅勤務になった父親が昼食用に買い込んでいるカップ麺の中から丁度いいくらいの大きさのものを選んだ。久々のカップ麺は油の味しかしなかった。

 お腹がいっぱいになったら、自分へのクリスマスプレゼントとして買ったウォーキングマシンに乗る。なんとなく、今食べたものを消費しなければ、と思ってしまった。テレビは、年末らしく、過去に放送した連続ドラマを一気に流している。

 午後からは近所の薬局に買い物に出かける。買いたいと思ったものがあったから来たはずなのに、着いたら何を買ったらよかったのかすっかり忘れて、全く関係のないホットケーキミックスを買って帰宅した。

 連続ドラマの再放送を見ていたら、気づいたら寝てしまっていた。寝て起きたらまたお腹が減ったので、ダイニングテーブルに置いてあったチョコクリームパンを食べた。時間は16時半。10年前なら、母親に「もうすぐ晩御飯なのに!」って怒られただろう。大人は、もう怒られない。怒ってくれる人も、いなくなってしまった。

 父親と2人で食べる蕎麦はぶちぶち切れるし、なんか粉っぽいしあんまり美味しくなかった。けど、大晦日、と言うだけで完食できてしまうほどにはするすると食べられた。


 年末は、寂しくなる。特に、大晦日。主にテレビなどのメディアが寂しくなる雰囲気を作ってくるのだと、思う。わたしにとったら、今日は特別な事はしていない、365分の1日。それなのに、特別な日にさせられてしまっている感じがなんとも言い難い悔しさを覚える。
 
 今年も色々あった。わたしはもうすぐ23歳になる。両親がわたしを授かった頃の年齢に近づいてきた。近づいてきて初めて、特別な存在だった両親もわたしと同じ人間だったのだと気づいた。

 23年間生きて、色んな経験をして、色んなことを知って、やっと思い出したくなかったような過去も受け止められるようになってきた。来年はもっともっと自分と向き合いたいな。でも、2021年は2度と来ないで。

 

こころ

今週のお題「忘れたいこと」

  昔の自分について、思いをはせるタイミングというものがある。別に何がきっかけ、というわけではないのだが、突然ふっと思い出したりする。最近は、突然寝る前に中学1年生の頃に喧嘩した友達の事を思い出してしまった。その喧嘩が決定的な原因になって、その子とはもう会う事はないのだけれど、喧嘩した後にもらった手紙の事も一緒に思い出して、夜中に引き出しを探すまでしてしまった。結局、手紙は見つからなかった。寝る時間がいつもより2時間も遅くなってしまった。

 

 手紙を読みたかったわけでなはないのだろう。過去の自分に、なりたかったんだと思う。ふっと思い出した過去の後悔とか過ちとかを今の自分が編集し直すことは出来ないのだけど、願望はあった。過去の自分になって、やり直しをしたかったのかもしれないと思った。

 

 わたしの場合、昔のことを思い出す時というのは寝る前が圧倒的に多い。特に、寝付けない時。

 できることなら、昔のことはあまり思い出したくない。思い出す時って、大体嫌な事ばかりだし。昔の自分をやり直して思い出を取り返してしまいたくなるし。後悔に襲われて劣等感さえも出てきてしまうし。過去の自分を認められないから、今の自分も認められなくなってしまうし。

 

 とにかく、積極的に考えたくないことが昔の自分のことなのだ。

 そんなわたしが、最近寝る前以外でふっと昔の自分について考えるタイミングがあった。昔の自分に似てる人を見かけたとか、そんなすぐに思いつくようなありきたりな場面でなく、唐突にやってきた。 

  職場に、小学5年生の男の子がいる。小学5年生にはとてもじゃないけど見えないほど、見た目も中身も幼い。初めて見た時は、1年生かと思った程だ。その子が、先日、好きな女の子ができたという話をしてくれた。見た目も中身もとても幼く、声も高いし女の子のように見られてもおかしくないけど、やっぱり5年生になると恋のひとつもするんだなあ、となんだか嬉しくなった。

 わたしが5年生の時、どんな恋をしていたかな、とふっと思った。ここで、小学生の時のあまり思い出したくない思い出たちがわたしを襲ってきた。

 

 友達が少なかったとか、先生に嫌われていたとか、悪口を言われて泣いて帰ったとか、野外学習の班決めで揉めたとか、自分の頑固な性格ゆえ喧嘩した友達のこととか、たくさん思い出すんだけど。

 あの時、自分はなにを思ってなにを感じていたのかが、全く思い出せなかった。それはいい思い出だと、思い出せる。思い出したくないような思い出に、大嫌いな昔の自分のことに、感情が付属していないことに気づいた。

 

 このブログを書くにあたって、今まで以上に昔の自分と向き合った。少し、疲れてしまった。

 

 

不自由

 前回の記事で、自由について触れた。僕が思う、僕の信念としての自由。今回は、僕の思う不自由について触れたいと思う。

 

 最近、アニメ化もされたとある漫画にハマった。その漫画は今年1番売れたと言ってもいいほどの人気ぶりで、僕もその漫画に魅了されてしまった。

 ひとりひとりキャラクターが立っていることや、そのひとりひとりのバックグラウンドが丁寧に描かれている。友情とか絆とか少年漫画らしい要素がたくさんあるんだけど、綺麗事のような痛々しい感じが一切なく、むしろ憧れさえ抱くような描かれ方をしている。泣ける描写もたくさんあり、実際に僕は何度か泣いている。

 

 僕は、漫画だけでなく、食べ物や小説や映画や好きな人や、一度ハマってしまうと、真っ逆さまに落ちてしまう。そういうタイプ。ドーナツにハマったときは狂ったように食べていたし、ニンニクにハマった時は体調を崩すまで食べ続けた。一度ハマってしまうと何かのきっかけがあるまで、抜け出せない。ちなみにドーナツにハマった時は、すぐ後にコーヒーショップにハマった事で抜け出した。

 

 この漫画にハマってしまった時、今回はこれか。と思った。次は漫画ね、と。突然この「ハマる」というものが降ってくるようにやってくるため、自分でも読めないことがほとんどだ。不意に出会って、自分に刺さる何かがあると、「ハマって」しまう。

 

 今回は、これまで以上だと感じた。原作では足りなくなってしまい、2次創作やファンアートを片っ端から見ていた。仕事中だろうがお構いなしだった。少しでも検索機能を使える時間があるのなら、この漫画に関する事だけを調べていた。それが、1ヶ月ほど続いた。

 

 この漫画が大好きなことは、変わらない。次にハマるものが見つかっていなかった、というだけではなく本当に飽きなかった。

 

 ただ、ハマったばかりの頃のモチベーションは失っており、それどころか、早く飽きてしまいたい、とまで思うようになった。ここまで自分の生活の大半を占めてしまっており、この漫画について調べるために生きているような生活をしていた。そのことに、不自由さを感じてしまったのだ。

 

 たとえ、好きなものだとしても、大好きで大好きで自分の生活を変えてしまう程のものだとしても、一つのことに囚われてしまうのは不自由だと感じてしまった。今までは短期間ですぐに次の「ハマる」対象に移行していた為気づかなかっただけだったのだ。

 

 不自由が、好きじゃない。何かに囚われることが、好きじゃない。それでも抜け出せないほどこの漫画が面白いことが最近の悩みである。 

 

 

 

 

自由

 大学を卒業して、正式に社会から「社会人」と呼ばれるようになってから今日まで、給料をもらうときとか、会社の中で理不尽な思いをした時とか、初めて行く美容院やジムで職業欄に「会社員」って書く時とか、「社会人」を意識させられる度に、自分の働き方について考える。

 僕は一応は、とある会社に従業員として所属しており、社会から見たら「会社員」に値する。決められた時間に、決められた事をする、いわゆる「仕事」をしている。言い方を変えると、「働いて」いる。

 

 今回の記事の【お題】は「自由に働くって?」なので、その事について触れていきたいのだが、そもそも「自由」って何だろう。よく言われるものに、人間が持つ本能に抗える事こそが自由、という考え方がある。

 確かに。納得する。本能に抗えないということは、自分の意思や信念がないとも捉えられかねない。坂道を転がっていくボールのように、自分の意思とは関係ない物が自分の行動を決めてしまっている。本能のままの行動を取る、という事は不自由なのかもしれない。

 

 僕には尊敬する哲学者がいる。近代の哲学者、ジョン・スチュアート・ミルだ。「満足した愚か者よりも満足したソクラテスであれ」という有名なフレーズとセットで知っている人が多いかもしれない。

 彼の著書「自由論」で、彼は自由について「誰にも迷惑をかけないことであれば何をしても自由」と定義している。これまでは自由について「本能に抗える事」が一般的であった中、他とは違う考え方を持つ。

 自由な働き方も同じだと、僕は思う。誰にも迷惑をかけていないなら、どんな働き方でもいい。何でもいいんだよね、別に。大多数と同じ働き方でなくても、先が想像できるような働き方でなくても。毎日楽しく過ごすことが出来るだけで、最高じゃん。

 

 

 

 蛇足だが、どうして僕がミルを尊敬しているのかと聞かれたらこれだけが理由で、ミルが定義する自由のあり方が好きだから。僕が求める「自由」と同じだったから。

 

 

参考引用文献

J.Sミル(著)、塩尻公明・木村健康(訳)、(1971)、自由論、岩波文庫

 

 

 

自分のこと

 ストレスが溜まった時の発散も、嬉しいこと、おめでたいことがあった時のご褒美も、涙が勝手に製造されてしまうくらい悲しい時も、大好きな誰かを喜ばせたい、と思う時も、わたしが取る行動は決まって1つ。食べること。

 全部の感情が食べることに直接的に繋がってしまう。自分や周りに何が起こっても、最終的には食べること、で終わらせてしまう。

 そんなわたしは食べることと向き合うことが下手なんだと思う。それに加え、食べることほど、好きなことが無いのだと気づいた。

文章を書くのが好き。絵を描くのが好き。本を読むのが好き。漫画を読むのが好き。哲学をするのが好き。新しいことに触れるのが好き。視野を広げるのが好き。自分を成長させるのが好き。
たくさん好きなことはあるのに、どれも食べることに勝ることはない。絶対に。

小さい頃から、食べることが全てだった。生きるのが器用じゃないわたしが褒められる唯一のことが、ご飯を残さないことと食べっぷりがいいことだった。

食べること以上に気持ちがいいことを、わたしは知らない。ホルモンバランスの関係でメンタルが崩れやすくなっている時はもっと酷い。食べる為に生まれてきたモンスターのように、食に貪欲になってしまう。

変えなきゃいけないのかなこんなわたし。
こんなわたしじゃ駄目なのかな、誰か教えてください。