何もない人生に

わたしには、何もない。

大学では心理学を学んだけど、それを生かす職種には就いていないし、これから就こうとも思っていない。わたしの人生において、心理学は必要なかったみたい。

 

わたしには、何もない。

美人でもない、可愛くもない。可愛くなる努力もできない。可愛い人や綺麗な人を見て妬んだりこそはしないもの、惨めな気持ちになる。自分は近づく努力すらもできないのに、すでに成し遂げている人を見ると、いかに自分が弱いのか思い知らされてしまうようで、惨めになる。

 

 

あるものといえば、無駄に高い身長と、幼少期から蓄積された脂肪と、諦めが良すぎる性格と、強すぎる共感性と自我と、人の悪いところばかり気づいてしまう目と。

 

何もないわたしの人生の目標は毎日楽しく過ごすこと、です。

 

 

うんこが臭くて仕事を辞める

匂いというのは、人を幸せにもするし、気持ち良くもさせるし、不愉快にさせる事も出来る。もっと行けば、元気にする事も出来るし、体調を悪くさせる事も出来る。

 

匂いの数は、計り知れない。わたし一人でさえ、匂いを嗅いだだけ色んな思い出が想起されたり、気持ちが変わってしまったり、気分が悪くなる事があるのだから、人の数だけ同じ現象が起こっているはずだ。

匂いを快と不快だけに分けたとしても、人によって快に感じるものと不快に感じる物が異なるから、ここまでたくさんの匂いが世界には存在しているのだと思う。

 

ある人が、世界中の人が幸せになれる、と思って作った匂いだとしても、その匂いで不愉快になる人は絶対に存在する。聞いた話だと、遺伝子が近い人ほど匂いを不愉快に感じるそう。遺伝子が近い人とは、優秀な遺伝子が残せないから、匂いで判断出来る様にする為に。それって、自分が好きな匂いの人は好きになる確率が高いし、逆に自分が嫌いな匂いの人は嫌いになる確率が高い、という事だよね。

 

わたしの職場には、74歳のおじいさんがいる。経営者の旦那で、正直仕事は出来ない人。でも立場上、誰もそんな事いえないからこの年になっても引き際が分からずにいる人。わたしたちに仕事のミスの尻ぬぐいをさせる人。私たちが尻ぬぐいをしている事にも気付かない人。とても、可哀そうな人。

 

わたしの職場のトイレは男女共用のものが1つのみ。その人は、そのたったひとつしかない共用のトイレで、毎日うんこをする。

 

毎日、だ。しかも、くさい。わたしが不愉快になる匂い。体調が悪くなる匂い。仕事に支障が出る匂い。それが、毎日。毎日、毎日、うんこの匂い。

 

わたしは来年の3月末で、ここを退社する。理由は色々あるのだけど、この「におい」も少なからず、わたしが退社を決意した理由に関わっている。

だって、くさいのだから。不愉快になるのだから。気分が悪くなるのだから。毎日。

 

匂いは人の人生をも変えてしまう。

 

 

 

 

 

感じる

落ち葉を踏む音、風の痛さ、手の冷たさ、瞼の乾燥、痒み、鼻詰まり、道路の凍結、夕方の渋滞、灯油の匂い、空の遠さ、星の明瞭度、ハンドクリームの匂い、洗い忘れたお弁当箱、ぬるい湯船、恋人の体温、風の匂い、チョコレートの硬さ、冷たい洗濯物、布団の厚さ、マスクで痛くなった耳、増えたスキンケア、着ぶくれ、夜の短さ、

 

種、花、

中学3年生の時の国語の先生の最後の授業が、10年近く経った今でも忘れられなくて、ふとした時に思い出してしまう。

そのふとした時、というのは決して毎日楽しく過ごして悩みなんて全然無い、ような時でなくて、辛くて辛くてどうしようもない時なのだけども。

 

卒業間近で、中学の授業の内容の履修を終わらせた僕たちに、どの科目の先生も伝えたいことを伝えられるくらいの余裕が出てきた頃。

人生経験のまだ浅い僕たちに、自分の経験談を含めた持論ともいえない、人生の話をしてくれる先生がちらほらいた。

国語担当だったM先生もその1人だった。

 

大学の仲良し同級生の中自分だけ教員採用試験に落ちたこと、初めて赴任した中学校がかなり荒れていたこと。

文章にすればそれなりの物語になりそうな話だった。

 

最後に先生が言ったのは、「とにかく、生きて」だった。

その直前に何を話していたのか、正直覚えていない。僕は、あまり綺麗事が好きじゃない。見えないものの力も信じない。でも、その言葉だけは綺麗事には聞こえなかった。その時はさして気にもとめなかった言葉が、ずっとずっと何年も経ってから、心の奥底から芽を出した。

 

先生の言葉は、植物の種だったんだ、と思った。僕の人生の時の流れがその種を育てて、何年も経ってやっと芽を出した。

 

最近もまた成長した。そろそろ花がつくような気がする。きっとこの花はもっともっと、僕が生きた分だけ大きくなるし綺麗に成長してくれるような気がする。

12月になったので、わたしの12月の話をひとつ。

1年の中で、12月が1番好きな月だ。クリスマスがあって、我が家はケーキとチキンとピザとシャンメリーがお決まりのメニューで、小さい頃から大好きだった。もう甘い飲み物は受け付けない年齢になってしまったけど、クリスマスだけはシャンメリーを飲みたくなってしまう。

 

クリスマスが明けると、一気に1年の終わり、って感じがテレビとか街の雰囲気とかから感じられて寂しくなるのだけど、それも結構好きだった。

 

12月31日は、わたしが1年で1番好きな日。自分の誕生日よりも、好きな日。

こたつでみかんとかお餅とか好きなものを食べながら、紅白とガキの使いを行ったり来たりするのがなによりも楽しかった。お蕎麦に1番大きなかき揚げを入れてもらって、おつゆでひたひたにして食べるのがなにりよりも好きだった。お蕎麦は別に好きでも嫌いでもないけど、12月31日だけはお蕎麦が大好きになった。

 

12月31日と同じくらい好きで、大好きで、居なくなってほしくなかったのが、母親だった。

 

考え方が古い人で、頭が硬い人だった。安定ばかりを求める、わたしとは正反対の人だった。この世界の誰よりも、わたしのことが大好きな人だった。

 

12月31日に母親がくも膜下出血で倒れた。

その日から一度も家に戻ってくることなく、母親は死んでしまった。

 

どうして神様は1年の中でわたしが1番好きな日に、わたしが1番好きな人を遠くに連れてってしまうのだろう。わかってやっているのかな。そんなことがあるとするなら、もはや神様なんていないのかもしれない。

 

ママがいない世界は、わたしが生きるにはあまりにも自由だった。ママがいなくなることが、わたしには自由を意味していたのだけど。

 

それでもいなくなってほしくなかった。自由なんていらないから、わたしが死ぬまで死んでほしくなかった。大好きだった。

 

 

 

恋人の話

恋人がいます。

 

僕は恋人に好きという感情を抱いて付き合っているのだけど、この好きという気持ちが、悪いことを呼んでしまうこともあるのだと、恋人と恋人になってからわかった。

 

1番は恋人が前付き合っていた人のことがどうしようもなく気になってしまうということ。

 

恋人から前付き合っていた人の名前だけを聞いて、Twitterのアカウントを特定してしまった。特定、というとなんだか気持ち悪さが増すので見つけてしまった、に訂正。

 

恋人の学生時代の部活の後輩だった。僕がその人よりも劣っているとか、優れているとか、かっこいいとか可愛いとか不細工だとか、性格がいいとか悪いとか、そんなんじゃないのだけど。

どうしようもなく気になってしまう。

気になってしまうたびにTwitterのアカウントを見にいってしまう。見てしまうたびに、嫉妬ともいえない、いや、嫉妬なのかもしれない汚い感情で自分がいっぱいになってしまうのがわかった。

 

この感情との向き合い方がわからなかった。気持ちが不安定になって、不安定になった感情のまま、恋人に触れてしまうこともあった。

 

どうして僕はこんなにも汚い感情をよく知りもしない人に向けてしまうんだろう、と思ったけど。よく知らないからこそ、嫌な感情を抱きやすいし、よく知らないからこそ、嫉妬してしまうし、自分の方が劣っているかもしれないと思ってしまう。

 

恋人とは付き合って3年になろうとしている。

会ったことも、(写真でしか)見たこともない、僕の恋人の元恋人へ。

 

僕から消えてください、今すぐに。